古都・百済の繁栄と滅亡をともにした、世界遺産の山城 古代朝鮮半島で百済・高句麗・新羅の三国が対立した三国時代。扶蘇山城(プソサンソン)は、その一国である百済(紀元前18年~紀元660年)の全盛期から滅亡までをともにした、象徴的な砦です。
大河・白馬江(ペンマガン)に面し、王宮・泗沘城(サビソン)も都の中心部である扶蘇山の麓に作られたため、土城・扶余羅城(プヨナソン)とつながって王都を守護するもっとも重要な存在でした。
敷地内には百済の歴史に関わりの深い遺跡が今なお多く残っており、2015年には「百済歴史遺跡地区」の1つとしてユネスコ世界文化遺産にも指定されました。
特徴
百済最期の瞬間を迎える山城
扶蘇山城の正門
古代朝鮮半島で百済(くだら・ペッチェ)、高句麗(こうくり・コグリョ)、新羅(しらぎ・シルラ)の三国が対立した三国時代。
そのうちの一国・百済(紀元前18年~紀元660年)は、もともと現在のソウルである
漢城(ハンソン)に都を置いていましたが、領土争いの中で現在の
忠清南道(チュンチョンナムド)・
公州(コンジュ)である熊津(ウンジン)へと南下しました。
その後、日本の朝廷ともゆかりの深い「武寧王(ムリョンワン)」の子、「聖王(ソンワン)」の時代には、さらに現在の
扶余(プヨ)である「泗沘(サビ)」へと遷都します。移り住んだ泗沘は、大河・
白馬江(ペンマガン)と、白馬江に面する
扶蘇山(プソサン)という強力な自然の防壁に恵まれ、また作物に恵まれた豊かな平野であったことから、百済は政治的・軍事的・文化的にもっとも栄える全盛期「泗沘時代」を迎えます。
「扶蘇山城(プソサンソン)」は、百済が中国・唐と新羅の連合軍に滅ぼされるまでの約120年間(538年~660年)、王都・泗沘の繁栄を支えた軍事的象徴であり、滅亡の瞬間をともにした最後の砦でもありました。王宮「泗沘城(サビソン)」も、この扶蘇山の麓に作られたため、「
扶余羅城(プヨナソン)」は王都を守護するもっとも重要な砦でした。
百済の歴史に関わりの深い遺跡が今なお多く残っており、2015年には「百済歴史遺跡地区(ペッチェヨッサユジョッチグ)」の1つとしてユネスコ世界文化遺産にも指定されました。
滅亡の現場で悲運の王国に思いを馳せる
2005年に放送された韓国の時代劇ドラマ「
薯童謠(ソドンヨ)」の主人公として描かれた百済の武王(ムワン、生年不詳~641年)は、高句麗と同盟を結んだり中国との外交に力を注ぐなど百済の発展に努めました。 その子で百済最後の王となった義慈王(ウィジャワン)は軍事を強化し領土を拡大していきますが、やがて享楽に溺れ忠臣の諫言にも耳を貸さなくなり、国を衰えさせます。
その間、新羅は
善徳女王(ソンドッヨワン)の甥・金春秋(キム・チュンチュ)が
武烈王(ムヨルワン)として即位。中国・唐との外交を成功させると、百済の隙をついて唐に援軍を要請し、
金庚信(キム・ユシン)将軍ら率いる18万の大軍を百済へ攻め込ませます(白村江の戦い)。義慈王は泗沘を逃れますが、扶蘇山城と泗沘城の陥落によって降伏を余儀なくされます。
この時、百済の王子の1人が日本に滞在していたため、百済の将軍だった鬼室福信(クィシル・ボッシン)らは百済復興を試み、交流のあった日本も援助しようとしましたが、大きな実りなく百済は歴史の中に消えることとなりました。
観覧にあたり
敷地内の坂道
「扶蘇山城」はかつて山城だった場所なので平地は少なく、坂道を上り下りする軽登山のような観光名所です。道は整備されていますが、歩きやすい靴でご訪問ください。
また暑い日・寒い日・雨の日などは長時間、野外観覧ができるよう事前にご準備ください。
施設紹介
チケット売り場
「扶蘇山城」は有料の観光名所です。チケット売り場は複数あり、どこからでも入場できますが「山門」が正面入り口で、記念撮影にも良い場所です。入場料を支払ったら入場です。
三忠祠(サムチュンサ)
義慈王時代の大臣で「百済3大忠臣」とされる、成忠(ソンチュン)、興首(フンス)、
階伯(ケベク)3名の功を称え、位牌と肖像が祀られている祠堂です。
策士で行政手腕に優れた成忠は、王の堕落ぶりを見かねて諫言した結果投獄されますが、敵軍が攻めてきた時の対策を遺書で書き残すなど最後まで百済の未来を考えていたと伝えられています。
軍事的知略に秀で成忠とともに百済の双璧だった興首は、のちに流罪にあった獄中で新羅の攻勢に対して成忠と同じ防衛案を説いたと言われています。
そして2人と戦火をともにくぐり抜けてきた百済の名将・階伯は、滅亡の淵に立たされ百済の大本営が機能しない中でもわずか5,000の兵による決死隊を率いて5万の新羅軍に4勝するなど勇戦(黄山ヶ原(ファンサンボル)の戦い)、しかし大軍を前に戦死した悲運の将軍です。
竪穴建物址資料館
竪穴住居が保存されている資料館。百済時代の瓦当(軒丸瓦の先端の円形部分)や瓦、土器とともに、鉄製武器、鎧の破片が発掘され、百済の軍事施設であったと見られています。
半月楼(パノルル)
扶蘇山の中腹に位置する楼閣。白馬江と扶余の町が一望できる展望台で、天気のよい日は川向こうの山の稜線までくっきりと見渡せます。
泗沘楼(サジャル)
扶蘇山でもっとも高い場所にあり景観の良い楼閣。かつては「皆山楼(ケサンル)」という名でしたが、朝鮮王朝時代に官庁の正門が移され名も改められました。
扁額の文字は、朝鮮最後の王・高宋(コジョン)の第五子、李堈(イ・ガン)によります。
百花亭(ペッカジョン) ※頂上付近
百済が陥落した際、約3,000人の宮廷女官が、扶蘇山の断崖「落花岩(ナッカアム)」から「白馬江」に身を投げ貞操を守ったと言い伝えられており、彼女たちを追慕するため、落花岩の近くに六角亭「百花亭」が建てられました。
天井には、清純無垢の象徴で極楽浄土に咲くとされる蓮の花が描かれています。
頂上まで来たら、戻る方法は3つ
「百花亭」あたりが頂上で、ここから先は下山となります。下山の方法は3つあり、1つは同じ道を引き返して「正門」に戻る方法。2つ目は引き返す途中の交差点で右側へと進み「旧門」へと抜ける方法です。
3つ目は遊覧船に乗車して戻る方法で、「百花亭」付近にある下りの階段を利用して、川方面へと降りていくとお寺と遊覧船乗り場があるので、詳しく見てまいりましょう。
皐蘭寺(コランサ)
百済王のための東屋であったとも、宮廷の内仏殿であったとも、落花岩から白馬江に身を投げた宮廷女官たちを祀るために建てられたともされる寺院です。
皐蘭寺裏手の岩の隙間から湧き出る薬水場「皐蘭亭(コランジョン)」と、その上の岩場に咲くめずらしい皐蘭草(コランチョ、ミツデウラボシ)を摘んで水瓶に浮かべたものを若返りの薬水として飲んだという百済王の伝説が有名です。皐蘭草は、川辺の絶壁や山の渓谷など一定の湿度が保たれる岩場の隙間に生え、冬も枯れないため、古くから薬草と考えられてきました。
皐蘭寺
皐蘭寺遊覧船(コランサユラムソン)・落花岩(ナッカアム)船上見学
黄海につながる白馬江の航路を通じて中国や日本と交易した「海上王国」百済。扶蘇山城観覧のハイライトは、そんな
白馬江を走る遊覧船による、扶蘇山の全景と
落花岩の見物です。
頂上を過ぎて正門と反対側に山を下ると麓に皐蘭寺遊覧船船着場があり、ここから遊覧船(有料、約10分所要)で川を下って「クドゥレ渡船場」まで行くのが王道コースです。
船上から見る落花岩
扶蘇山全景
※遊覧船は2種類あります。(帆船:乗客30人以上時運航、一般遊覧船:乗客7人以上時運航)
※百馬川に漂流確認時、事故の恐れがあるため、帆船の運航が休止になる場合がございます。
<下船場所>
クドゥレ渡船場は一般道に面しており、下船後は徒歩で正門のある市街地まで戻ることになります(約20分)。
扶余客舎(プヨケッサ)
官庁の客人や使臣たちが宿泊した施設で、中央の正堂と東西の翼室からなります。正堂は切妻屋根(マッペチブン)で、両側に翼のように作られた翼室は八作屋根です。
正堂には王を象徴する位牌が置かれています。もともとは扶風館(ププングァン)でしたが、1932年に百済館(ペッチェグァン)という扁額に変わりました。
掲載日:15.10.01 最終更新日:24.04.12
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