朝鮮時代の王様の居住空間であった離宮 ソウル市中心部に位置し、古宮ならではの荘重な雰囲気と豊かな自然が見事に調和している昌慶宮(チャンギョングン)。南は宗廟(チョンミョ)、西は朝鮮時代に昌慶宮とともに東殿と呼ばれてた昌徳宮(チャンドックン)が隣接しています。父・太宗(テジョン)が穏やかに退位後を送る場所として、1418年に朝鮮王朝第4代王・世宗(セジョン)が建立。壬辰倭乱(イムジンウェラン、文禄・慶長の役)や日本植民地時代に建物の多くが破壊、変形されましたが、1980年代に復元。歴史散策を楽しむ国内外の観光客が一年を通じて数多く訪れます。
国内外の観光客が一年を通じて訪問する古宮
ソウル市内中心部に位置しながら、古宮ならではの荘重な雰囲気と、豊かな自然が見事な調和を成している「昌慶宮(チャンギョングン)」。
「昌慶宮」の南側には「
宗廟(チョンミョ)」、西側には朝鮮時代「昌慶宮」とともに東殿と呼ばれ「
景福宮(キョンボックン)」の離宮として役目を果たした「
昌徳宮(チャンドックン)」が隣接し、歴史散策を楽しむ国内外の観光客が一年を通じて数多く訪れます。
「孝(ヒョ)」の心により創建された昌慶宮の歴史
「昌慶宮」の歴史は、1418年に朝鮮王朝第4代王・世宗(セジョン)が建てた「寿康宮(スガングン)」にはじまります。退位した父・太宗(テジョン)が穏やかに後世を送る場所として建てられました。
1484年に第9代王・成宗(ソンジョン)が、祖母・貞熹王后(チョンヒワンフ)、生母・昭恵王后(ソヘワンフ)、養母・安順王后(アンスンワンフ)の3人が住むための別宮として再建、名前も現在の「昌慶宮」となりました。
1592年の壬辰倭乱(イムジンウェラン、文禄・慶長の役)ですべての建物が焼失、1616年に再建後も大小の火災に見舞われ、そのつど復旧が重ねられました。
日本による植民地時代には動・植物園が作られ、名称も「昌慶苑(チャンギョンウォン)」に格下げされて一般人にも公開されるようになるなど、宮内の建物の多くが破壊・変形されました。しかし1983年から3年間にわたる韓国政府の大規模な復元・改修工事を経て、「昌慶宮」という名前とともに、ようやく昔の姿を取り戻すに至りました。
風水地理説と建築物
正門「弘化門」
「昌慶宮」には他の宮廷には見られない、ある特徴があります。古宮建築には、宮廷の門そして中央に位置する殿や閣は南向きに建てなければならないという一定の原則がある中「昌慶宮」は正門「弘化門」、正殿「明政殿」が東を向いている唯一の宮廷です。
元々、王妃たちの生活空間で、国事を行う主宮ではないため、という説もありますが、地形や水の流れる向きなど自然の持つエネルギーが運気に大きな影響を及ぼすと考えられた風水地理説上、南向きは不吉だと判断されたため、という説が有力とされています。
火の気を抑える動物ヘチ(ヘテ)
ヘチ
宮内をめぐると、橋の欄干をはじめ、あちこちでちょっといかつい顔の動物に出会います。正体は「
ヘチ(ヘテ)」と呼ばれる空想上の動物で、当時火の気を抑える力があると信じられていました。当時、木造建築の最大の敵は火災だったため、「ヘチ」を宮内のあちこちに置き、災難を逃れようとしたのです。
観覧案内
チケット売り場
正門に当たる「弘化門」前にチケット売り場があります。チケットを購入し「弘化門」前にいる係員にチケットを提示しましょう。
「昌慶宮」では海外からの観光客向けに日本語をはじめ、各国語での無料ガイド案内を実施しています。所要時間は約60分で、集合場所は「玉川橋」の前でスタート時間までに待っていれば参加できます。
最新のガイド時間は以下の「昌慶宮」のホームページよりご確認ください。
・
無料ガイド案内(日本語ページ)
・
無料ガイド案内(韓国語ページ)
※諸事情により中止となる場合があります。
※ガイドの同意なく、解説の録音・撮影はできません。
※20名以上の団体は、事前予約が必要です(02-762-4868)。
昌慶宮の主な見どころ
弘化門(ホンファムン) ※宝物
弘化門
「昌慶宮」の正門で、1484年に建築されました。壬辰倭乱で全焼し、1616年に再建後も修理と丹青(彩色を施すこと)が繰り返されてきたため、本来の美しさは影を潜めてしまいましたが、17世紀初めの木造建築物の研究資料として重要な価値を有しています。
玉川橋(オッチョンギョ) ※宝物
玉川橋
1483年(推定)に造成された長さ9.9m、幅6.6mの石橋。北から南へと流れる川にかかり、正殿にはこの橋を渡らなければ入ることができませんでした。
「玉川橋」周辺は、春になると梅が咲き見事。観光客の目を楽しませてくれます。プロのカメラマンもこの時期になると撮影に良く訪れます。
明政門(ミョンジョンムン) ※宝物
明政門
正殿「明政殿(ミョンジョンジョン)」の正門であり、「昌慶宮」の中門にあたります。「昌慶宮」創建当時の「明政門」は壬辰倭乱で焼失してしまい、現存の建物は、その建築様式から明政殿と同時期に再建されたものと推定されています。
明政殿(ミョンジョンジョン) ※国宝
明政殿
「昌慶宮」の正殿として1483年に創建。即位式が行われたり王が朝賀を受けたりする場所として使用されました。壬辰倭乱で焼失しましたが、1616年に再建。以来「昌慶宮」が幾度か大火災に見舞われる中、「明政殿」は火の手を免れ、現存する朝鮮王宮の正殿のうち最古の歴史を誇っています。天井には鳳凰が金色で描かれており、国宝226号に指定されています。
文政殿(ムンジョンジョン)
「昌慶宮」の便殿(ピョンジョン:王の執務室)であり、王と臣下による最高会議が行われた場所。壬辰倭乱で焼失、1616年に再建されるも日本の植民地支配により破壊され、さらに2006年には放火犯により一部が焼失してしまうという受難の歴史を持っています。
文政殿
その他の施設
涵仁亭(ハミンジョン)
科挙(クァゴ:朝鮮時代に官僚を選ぶために国が行った試験)に合格した人々を王が称賛して、もてなしたところ。柱のみで構成された開放的な建築様式が特徴で、見晴らしの良い庭にそびえたっています。
景春殿(キョンチュンジョン)
「昌慶宮」の内殿(王と王妃の生活空間)として1484年に創建されました。第22代王・正祖(チョンジョ)と第24代王・憲宗(ホンジョン)が生まれた場所でもあります。「景春殿」と書かれた扁額は、第23代王・純祖(スンジョ)の直筆。
歓慶殿(ファンギョンジョン)
「景春殿」とともに「昌慶宮」の内殿として使用された建物。1484年に創建されましたが壬辰倭乱で焼失しました。その後も大火災に遭いますが、1834年に再建され現在に至ります。第11代王・中宗(チュンジョン)が息を引き取った場所でもあります。
通明殿(トンミョンジョン)
「明政殿」の北西側にある「通明殿」は、王と王妃が暮らした内殿の中で最も大きく、宴会場所としても使用された建物。壬辰倭乱、そして1790年の火災で焼失しますが、1834年に再建されました。
養和堂(ヤンファダン)
1636年、清が朝鮮に侵攻した丙子胡乱(ビョンジャホラン)の際「南漢山城(ナマンサンソン)」に避難していた第16代王・仁祖(インジョ)が、都に帰還するにあたりここに留まりました。扁額は純祖の直筆によるもの。
敷地内にある大きな池と植物園
春塘池(チュンダンジ)
春塘池
ひょうたん型をした面積7,590平方メートルの蓮池。1909年、日本の植民地支配により造成されました。元はひょうたんの上部分が「春塘池」、下部分は王が実際に農作業をし、農政の実態を知るための水田でした。池に浮かぶ島は、1986年の復元工事の際に造成されました。
大温室(テオンシル)
大温室
1909年に完成した韓国初の植物園。当時は熱帯地方の稀少植物を中心に展示していましたが、1986年の昌慶宮復元工事を期に、自生植物・野生花も展示されるようになりました。
※冬季(12月~2月)は寒波のため、18時までの観覧となります。
八角七層石塔(パルガッチルチュンソッタッ)
八角七層石塔
植民地時代、日本が昌慶宮内に「李王家博物館」を建築する際、満州から来た商人より買い取り、春塘池のほとりに建てた石塔。刻まれている銘文の内容から、1470年に作られたと見られています。
「昌慶宮」⇔「昌徳宮」連絡通路
「昌慶宮」と「昌徳宮(チャンドックン)」は隣接していますが、正門はとても離れた場所にあるため、それぞれの宮殿の中間に連絡通路が設けられています(
地図)。
連絡通路前にあるチケット売り場で「昌徳宮」のチケットを購入後、連絡通路にいる係員にチケットを提示すれば「昌徳宮」の敷地内に入り自由に観覧できます(統合観覧券所持者はチケットを別途購入する必要はありません)。
連絡通路前にある「昌徳宮」チケット売り場
昌慶宮の四季
春
夏
秋
冬
掲載日:18.10.06 最終更新日:24.01.16
更新履歴を見る
・関連サイトを更新しました(20240116)
・一部記事内容を更新しました(20230727)
(2021年以前の更新履歴を省略)
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