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  • 「私の体と心を朝鮮に残してほしい」遺言残した日本人

  • 社会・文化 2022年06月20日 11:18
  • 「疲れた朝鮮よ、他人の真似をするより、持っている大事なものを失わなかったなら、やがて自信のつく日が来るであろう。このことは、工芸の道ばかりではない」

    日帝強占期真っ只中の1929年、朝鮮に住んだ日本人林業技師であり民芸学者である浅川巧(1891~1931)はその著書『朝鮮の膳』の序文にこのように書いた。陶磁器を研究する兄の伯教(1884~1964)の後を追って朝鮮に来た巧は朝鮮の地と木と人々をこよなく愛した。40歳で急性肺炎で亡くなり、「体と心をすべて朝鮮に残したい」という遺言を残し、望み通りソウル忘憂里(マンウリ)共同墓地に埋葬された。

    山梨県北杜市は朝鮮の研究に人生を捧げた「最初の韓流ファン」浅川兄弟が生まれ育った地だ。18日、在日本韓国文化院が主催する「道の上の人文学」踏査プログラム参加者30人がここを訪れた。韓国の跡が今も残る日本国内の場所を訪ねるこの行事は、新型コロナウイルス感染症(新型肺炎)で2年間中断されたが今回再開された。

    訪問団が初めて到着したのは北杜市高根町にある「浅川伯教・巧兄弟資料館」だ。巧が朝鮮で書いた14冊の日記を保管していた韓国人のキム・ソンジン氏が1995年これを北杜市に寄贈したことをきっかけに2001年オープンした。比奈田善彦館長は「浅川兄弟資料館は韓日友好の象徴的な場所だ。新型コロナで観覧客が減って残念だが、このように訪れてくれて感謝している」と挨拶した。

    資料館には浅川兄弟が当時朝鮮で接した風景が韓国陶磁器や膳、家具、韓服などの遺品によって再現されている。1913年小学校の美術教師として朝鮮に行った兄の伯教は朝鮮の陶磁器に魅了されて700カ所余りを越える全国の窯を回って「李朝陶磁器窯跡一覧表」を作った。山梨県立農業学校を卒業した巧は1914年に朝鮮に渡り、朝鮮総督府の林業試験所職員として勤務し、韓半島(朝鮮半島)緑化事業に努力した。同時に朝鮮の工芸品を愛で、当代の民芸研究者だった柳宗悦と交流して朝鮮民族美術館設立にも率先した。「兄弟が収集した陶磁器と工芸品は3500点を越えたが、兄の伯教は戦争が終わって日本に帰国するとき朝鮮の博物館にすべて寄贈したといいます」。比奈田館長の説明に観覧客が「ああ」と言いながら首を縦に振った。

    展示場の一角には伯教がインタビューで残した言葉が記されている。「朝鮮人と日本人の親善は政治や政略ではだめで、文化と芸術を互いに交流することで可能だと考える」

    展示館の近くには浅川兄弟の生家跡地と浅川家の墓地がある。ソウル忘憂里に埋葬された巧を除く家族の墓だ。朝鮮に住んでいた当時、巧は韓服を着て朝鮮の言葉を使い、朝鮮人と隔意なく交流していたと伝えられる。彼の葬儀に朝鮮人がやってきて号泣する場面などは2011年に作られた韓日合作映画『道~白磁の人』にも含まれている。映画製作を総括した製作委員会の小沢龍一事務局長もこの日現場を訪れて映画製作の裏話などを聞かせてくれた。

    この日の踏査には10代から70代まで幅広い年齢帯の人々が参加した。在日韓国文化院側は「30人の応募のところ400人以上が申し込みをした」とし「韓国文化に対する日本人の大きな関心を感じることができた」と明らかにした。映画『道~白磁の人』を見て浅川兄弟の人生を知ったという50代女性参加者は「ここに来てみると朝鮮という国を熱く愛した兄弟の気持ちが伝わってくるようだ」とし「機会にあればソウルにある巧の墓地にも訪ねたいと思っている」と話した。

  • 18日、山梨県北杜市にある「浅川伯教・巧兄弟資料館」で比奈田義彦館長(右)が浅川兄弟の生涯について観覧客に説明している。イ・ヨンヒ特派員