祖国の独立を願って戦った日
三一節(サミルジョル)は、1919年3月1日、日本の植民地支配に抵抗して、市民たちが独立を願って行なった運動をたたえた祝日です。
1949年に 韓国の祝日である、国慶日(クッキョンイル)に制定され、8月15日の 光復節(クァンボッチョル)、10月3日の 開天節(ケチョンジョル)と並ぶ韓国の3大祝日の1つとなっています。
三・一独立運動とは?
タプコル公園にある、ソン・ビョンヒの銅像
三・一独立運動とは、日本の統治に反旗を翻し、朝鮮半島の人々が、日本からの自主独立を求めた運動のことを指します。
1910年の日韓併合により、日本の植民地となった朝鮮半島。9年後の1919年3月1日、民族代表33人と呼ばれるソン・ビョンヒをはじめとした33名が、パゴダ公園(現在の タプコル公園)で独立宣言書を読み、全世界に朝鮮民族の自主独立を宣言しました。
これをきっかけに、独立を求めるデモは全国的に広まっていきました。
しかし、このデモを抑えようと、日本は武力行使をもって弾圧を行ない、多くの人が無差別に殺害され、この運動で命を落とした人々は7509名にものぼると記録されています。
三・一独立運動の様子が描かれたレリーフ
独立宣言書を読んでいる様子
韓国のジャンヌダルク、柳寛順
三・一独立運動は、この人抜きでは語れないといわれる、柳寛順(ユ・グァンスン)。彼女は三・一独立運動が始まると在学していた梨花学堂でデモを行ない、学校が休校になると、故郷の忠清南道(チュンチョンナムド)天安(チョナン)市に戻り、万歳運動(独立万歳と叫びながら行なうデモ)を計画・指揮したと言われています。この時日本憲兵の発砲により両親が死亡し、自身は西大門刑務所に移送されました。その後、彼女は、デモで負った傷と拷問が原因で、17歳の若さで獄死します。死亡する直前に「独立万歳」と叫びながら獄死したという話もあるほど、彼女の愛国精神は強かったと言われています。1962年に韓国政府より建国勲章を授与され、独立烈士と呼ばれる柳寛順。彼女の精神や存在は、現在でも語り継がれているほど、三・一独立運動の歴史を語る上では必要不可欠な人物です。
現在も毎年行なわれる記念行事
3月1日は街中のいたるところで 太極旗(テグッキ)が掲げられ、タプコル公園のある 鐘路(チョンノ)では、毎年三・一独立運動で殉死した人々を追悼する記念行事や、独立を祝う記念行事が行なわれています。
普信閣(ポシンガッ)~ソウル劇場までの鐘路1~3街の800メートルの区間は歩行者天国になり、「万歳運動再現行事」をはじめとして、写真展・国楽フェスティバル・ 農楽(ノンアッ)など多彩なイベントが朝から夕方まで続きます。
またこの日を前後して、独島・竹島問題や歴史教科書問題など、日韓の歴史に関する集会や デモが行なわれることもありますが、観光を控えるほどではありません。
しかし、道を歩いていると「今日が何の日か知っている?」と年配の方に聞かれることもあるので、この日がどんな日であるかを知り、観光することをオススメします。
楽器の演奏や
踊りも繰り広げられます
太極旗のペイントコーナー
独立運動に関する写真展
太極旗を手に行進をしたり
当時の様子を再現
韓国の近現代史を深く知る
韓国には日韓の関係や近代韓国の歴史を学べるスポット・施設があります。日韓の歴史をもっと深く知りたい・勉強したいという人にオススメです。
タプコル公園
3・1独立運動の発祥地。
お年寄りが集まる社交場でもある
独立記念館
天安市に位置。
民族独立への歴史をつづった博物館
戦争記念館
朝鮮半島の統一、
平和を願って建てられた戦争記念館
孝昌公園
韓国の独立運動家たちが眠る
歴史ある公園
白凡記念館
大韓民国臨時政府の樹立に貢献した
金九(キム・グ)記念館。孝昌公園に隣接
忘れられることのない歴史
韓国では 金大中(キム・デジュン)元大統領の日本文化開放政策により映画や音楽などの日本文化が広がりはじめ、日本でも2000年代に冬ソナブーム・K-POPブームが起こって以降、多くの文化交流を通して、近年日韓両国の距離が縮まってきました。しかし、一方で両国の間で起こった、過去の歴史も大きな事実としてあります。三一節は、日韓の忘れることのできない歴史を象徴する日。
多くの韓国人が心の根底に持っているであろう、日本への微妙な感情を理解する上でも、自由と平和の象徴であるこの日の意味をしっかりと知ることは、大切なことではないでしょうか。
|